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もうひとつの・・・スーダンという国 [スーダン]

内藤カメラマンHPより 

ダルフールや紛争地帯の写真を撮って、
今の現状を伝えていくジャーナリストカメラマンも絶対に必要だ。
しかし僕は、とかくそのイメージで凝り固まった概念に対しての
「もうひとつのスーダン」を捉えたかった。

そして「生きていく素晴らしさ、苦難を越えていく素晴らしさ」を、
それらを通して少しでも感じてもらえればと思う。

 

 スーダン9.jpg

 

ガターレフ州での1枚・・・ここには昨年の同時期にも訪れていて、
その時は見渡す限りの緑一面のデュラ畑でした。
デュラはトウモロコシに似てて、たぶんヒエやアワの一種の植物
・・・彼らの主要作物です。
今年はご覧の通りの一面のひび割れた大地
・・・そこに5日前に植えたデュラの芽が顔をやっと覗かせていました。
今年はデュラが育つ7月の雨期にほとんど雨が降らず、
デュラが育たずご覧のようなひび割れた大地となっていました。
ほんとうに過酷な大地です・・・地球温暖化も感じます。
その日の気温は約40度・・・比較的涼しい1日。
これから乾期のスーダンでどこまでデュラが育つかわかりませんが
農場主は種を再度蒔いていました。

 

スーダン7.jpg

グッディーヤの三角茅葺きの家々が並ぶ。
非常に近い生活文化圏なのである
・・・写真はロシナンテス診療所があるハサバラの村の美しい美しい夕日。
僕の滞在期間中はラマダンだったため、この夕日に包まれながら
・・・やっとその日の朝食(イフタール)がはじまる。
そしてまた祈りの時間。
ほんとうに聖なる静かな時の流れ・・・
なぜか人間としてのこころの落ち着きも感じた。


それが僕の真ん中にある心・・・軟弱な写真と呼ばれてもいい。
僕は友情と愛情と美しい心を追求していきたい。
子どもらに醜い世界ではなく醜い大人ではなく、
うつくしい心や友情やうつくしい人を伝えたい。
誇りある大人の姿をひたすら伝え続けていきたい。

 

 

スーダン10.jpg

 

ここはスーダン南東部ガターレフ州のどこか? 道に迷った先での1枚。
ここではシャイ(紅茶に砂糖を入れた甘い飲み物)を御馳走になってしまった。
「シャイを飲ませてください」と頼んで、おいしくいただき料金を払おうとすると、
そこにいたボスのような人が僕たちの変わりにシャイ代を払ってくれた。

ありがたく「シュクラム」・・ありがとうと言ってゴチになった。
しかし、とにかくスーダンの人は砂糖が好き。
コーヒーもシャイもかなり甘くして飲む。

そしてその元の水が手前のお皿にある濁った水である。
しかし暑い中で飲む甘いシャイは格別。
オフロードで凝った身体をほぐしてくれる。
ちなみにこの日は1月だというのに摂氏40℃を記録、
夜はたぶん15度あたりまで下がった。

乾期である1月は、川らしきところを土で塞き止めて、ため池を作る。
そしてそれはそのまま家畜の飲み水であったり人間の飲み水であったりする。
その汚水が原因の病気(寄生虫、大腸菌)も、人の病気や生命さえも奪っていく。

そして雨期の7月、8月にもなるとナイル川は氾濫し
道路もなくなり寸断だらけとなる。厳しい過酷な自然である。
しかしながらみんな元気、とにかく明るい人たちなのだ。

汚い水ばかりではない。
僕たちが訪ねたガダーレフ州ガランナハル村周辺は、
ドイツの技術協力で随分と水が澄んでいてきれいなところもある。

 

 スーダン11.jpg

 

そしてスーダンの子供の4人にひとりは5歳まで生きることができない現実。
マラリア(蚊を媒体とする感染症)や水の汚染が原因の下痢や病気などです。
内戦の影響もまだまだ色濃く残っています。
そんなあおりを受けるのはまずは子どもたちです。


とにかく想像を絶するハエの大群でした・・・
そんなことも衛生上の問題ではあるのだが、
人間数より遥かに多いハエくんたち・・・
どこから手をつけていいのやらである。
しかし現地の子供達は非常に明るい。
そして親の言うことを実に良く聞き、よく手伝う子供達であった。
日本が失った家族の型・・・スーダンから学ぶべきものも実に沢山あるのである

 

戦争や紛争で破壊していく姿は、僕の中ではもう相手にしたくない。
ただ事実を知る大切な報道だと思うけれど、
やはりそこはそれに向かえる価値観がある人が行なえばいい。
僕も心の底では彼らのことを応援したい。


しかし僕はやはり・・・それらによって犠牲となっている弱者と共に
「ひとつずつ大切な芽を育てたい、日本人の僕たちがどのようにして友情を築き、
共に歩んでいくことを写真に記録していきたい、そしてその物語を伝えたい」
ネガティブな事実だけではなく、少しでものポジティブな芽を出す作業。


スーダンについて  
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

スーダン共和国・・・国旗の意味は、赤が革命と進歩と愛国者を、白は平和と未来への希望を、 黒は国名(スーダンとは「黒い土地」という意味)とアフリカ大陸を、緑はイスラムの 繁栄と幸福を表している。人口は約3,100万人。
面積は日本の約6.6倍。
アフリカ大陸最大の面積を有する国。首都はハルツーム。

1849年より英・仏などの保護下で奴隷貿易が始まる。
1899年より英国による南北スーダンの分割統治が始まる。いわゆる植民地。
1955年  継続的な南北スーダンの内戦状態が始まる。
1956年  英国領より独立。南部の石油利権をめぐり南部による抵抗が始まる。
独立後における様々な意味での南北の違いや格差、経済発展の格差の不均等が原因となって、その後の長きに渡って内戦が続く。

2002年  南北内戦の部分的停戦合意成立。
2003年  ダルフールでスーダン解放運動(SLA)と
      正義と平等運動(JEM)などの抵抗が始まる。
      ダルフール地方からの難民及び国内避難民の流出が始まる。

2005年1月 南北内戦の包括和平協定が成立した。

しかし未だにダルフール地方には200万人に達する難民が溢れかえり、
南スーダンにおいての復興は先が見えない状態。

イギリスのスーダン南北統治の影が色濃く残るスーダン。
北スーダンは、主にアラブ系でイスラム教。
現政権は、アラブ系イスラム原理主義。
南スーダンは統治の影響もあってキリスト教でアフリカ系黒人。
一つの国で、休みの日も違う。北は金曜日、南は日曜日とまったく二つの国が混在している状態。南スーダンでは、その他土着宗教、民族も多数あり問題をさらに複雑している。そして南スーダンには石油資源がある。
その利権を巡っても大国を巻き込んでの複雑な側面を要している。
内戦時には主に南スーダンが戦場となり、国連や各国のNGOを南スーダンの首都・ジュバに集結している。

2011年には、南部独立についての住民投票が行なわれる予定。

現在の石油採掘は主に中国の技術で行なっていて、北スーダンにあるポートスーダンまでパイプラインを引き輸出を行なっている。

鮮烈な記録に残る 2001年9月11日 アメリカ同時多発テロ。

その3年前の1998年、在タンザニア米大使館と在ケニア米大使館に対しての爆破テロ。
2カ所で224名が死亡。
爆破の影響で周囲の市民など約4000人が死傷した。
この爆破事件の実行犯は未だ特定されていないが、アメリカ政府はテロ組織「アルカイダ」の関与によるものと断定し、同年8月20日にアルカイダ・キャンプがあるといわれるアフガニスタン東部とスーダン・ノースハルツームにある化学兵器工場を巡航ミサイルにより報復攻撃した。結局、誤爆だった。

 

 


タグ:スーダン
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