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これまでの写真展 [写真掲載雑誌&これまでの写真展]

 

 2008年6月24日ー7月13日
長崎ピースミュージアム
「もうひとつのスーダン」写真展(カラー展示)を開催
写真65点展示

写真展 長崎1.jpg

 

 


 

 2008年7月1日ー31日
東京汐留・共同通信本社「ギャラリーウォーク」
「もうひとつのスーダン」写真展(モノクローム展示)を開催
写真23点展示

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2008年10月28日ー11月9日
東京 三軒茶屋 SAN CAFE
「Operation fennec」
Musician繭子とPhotographer内藤順司によるコラボレーション展
写真55点展示

 JN2_1537web.jpg

 

 


 

2008年12月1日~12月10日  
 「日本人医師 川原尚行の挑戦 もうひとつのスーダン」 

写真展 in福井
場所:AOSSA 4Fアトリウム

JN1_2524web.jpg

 

 


 

2009年2月8日(日)~2月15日
「日本人医師 川原尚行の挑戦 もうひとつのスーダン」

写真展 in湘南
会場 : 湘南稲村ヶ崎「inamura PANASKY」
音楽(ライブ)と写真のコラボレーション

 JN1_6630.jpg

 

 


 

2008JPS(日本写真家協会)展 入選
巡回展に「日本人医師の挑戦 アフリカ・スーダン」と題して3枚組写真を出展

東京展  2008.05.24 - 06.08 (月曜休館)
東京都写真美術館(恵比寿)

広島展  2008.06.13 - 06.19
広島市アステールプラザ

関西展  2008.07.08 - 07.13
京都市美術館

名古屋展 2008.07.15 - 07.21
愛知県美術館ギャラリー展示室E・F

 


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ゴミと温暖化 [スピッツベルゲン島&沖縄]

 

 スピッツベルゲン島の絶景だが・・・

JNP_2481web 1.jpg

 

内藤カメラマンHPより 

極圏にあるスピッツベルゲン島の写真である。
やはり北極圏だけあって、6月だけれど氷河と冬の感じの写真。
しかし確実に氷河は溶け出し、崩れて・・・薄い氷が漂流していた。

この写真は、やはり地球温暖化を表しているのだと思う。
いづれ北極の氷がなくなる日が来るのかもしれない・・・

そうするとますます気候変動は激しくなると思う。

 

※スピッツベルゲン島(スピッツベルゲンとう、Spitsbergen)
ノルウェー領スヴァールバル諸島最大の島。 同諸島で唯一の有人島である。

諸島全体の極地科学的研究対象としての重要性とともに、
世界の農作物種の保存を目的としたスヴァールバル世界種子貯蔵庫の
設営場所としても今後重要性を持つことが予想される。
『Wikipediaフリー百貨事典より』

 


 沖縄の宝石

 

     オキナワ2.jpg

この素晴しい生命の力溢れる島の海に

今、何が起こっているのか?

観光地の光と影を・・・目を逸らさずに知って頂きたい。

そして、何をすべきなのだろう・・・私達は。

 

 


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スーダンで命を救う [海外で奮闘する日本人]

川原尚行医師(NPO法人 ロシナンテス) 

スーダン3.jpg

 

内藤カメラマンHPより 

スーダンという未知の国・・・そこにはやっと内戦が終わり多くの難民がいる。
そこに焦点を合わせることも必要だけど、
自分はそこで働く日本人にまず焦点を合わしていきたいと思っている。
そしてそこに暮らす人々の暮らしや表情、
うつくしい風景、景観を大切にして、それも描いていく。


そして、その日本人が、
一つ一つの命を大切に救いあげるその「いのち・こころ」を
伝えていきたいと思っている。
そんな姿を、まず第一に見てもらいたいのは、
将来のある子供たちになんだよね。


・・・豊かな繁栄の中にいる日本だけれど情報があまりに多すぎて、
すぐ隣りが気になりすぎて、目標や生き甲斐を失いかけている人が沢山いる。

 


目標や生き甲斐を探し求めている若者も沢山いる。
そんな若者たち、人たちに・・・自分をも含めて
見て感じてほしい「いのち・こころ」がある。


まずは自分が身体でリアルに感じたいんだよね。
そしてひとりでもいいから感じてほしい。


ロシナンテスについて 

2006年5月には「NPOロシナンテス」を設立。
2007年3月からは首都ハルツームから南東に約500km離れたエリトリア国境近くのシェリフ・ハサバッラという小さな村にロシナンテス診療所を開設。
マラリア発症が他地域に比べて多く、しかも無医村だったこの村での診療所開設の意味は大きい。
朝から深夜まで診療は続く。時間が空いた時には巡回診察にも出かける。
そこにはまたベッドに横たわりマラリアで苦しむ女性の姿。

彼の活動は診療所の診察だけにとどまらず、日本の中古医療器具や中古救急車を活用、小児科医療の充実、協力、そして日本の養護学級との交流。
スーダン医師・看護士の日本への医療研修招聘。逆に日本医学生のスーダンでの現地研修への受け入れ。
スーダン北部メロエでのデェイツ(ナツメヤシ)の植樹活動、砂漠化する土地での産業を模索する為の生命力に優れているケナフ農場(紙原料となる植物)への挑戦、そして病気予防に最も大切な水質浄化への取り組み。
医療・環境・農業・文化・教育という幅広い形で、スーダンの人々との共同作業を行なっている。

スーダン4.jpg

診療の合間に村を散歩する。
木陰で休む村人らが笑顔で声をかけてくる。
「ドクトル・カワハラ・・・お前は良い奴だ。サディーク、クワィス・・・最高の友だちだ」
疲れた身体に充実感が染み渡っていく。

ひとりひとりを献身的に診察していく日々、川原尚行医師の挑戦は今日も続いている。

ダルフール紛争ということ以外は、一般に知られることのないスーダン。
内戦・紛争で生命が奪われていく現実のなか、
ひとつひとつの生命を救いあげていく「もうひとつのスーダン」がここにある。


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カンボジアの美しい自然 [カンボジア]

カンボジア8.jpg

 

内藤カメラマンHPより 

上の写真は、訪問診療に向かう途中の道・・・ほんとうに美しい道、まるで冬のソナタの一場面のような道。
しかし、この美しい道の傍らには、まるで倉庫のような家に暮らす患者さんがいた。カンボジア・シュムリアップ市内より東へ約50Km。

僕ら日本人にとっては、カンボジアは映画「キリング・フィールド」で描かれた内戦、ポルポト政権下で100万人とも言われるの虐殺。
今も残る地雷の数々・・・といったところだけれど、すごくすごく美しい国であり、やさしい人たちが住む国であった。また早く行きたい。

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アンコール遺跡群の中にあるタプロームという寺院跡。
すごい根っこが寺院に絡みついている。
すさまじい生命力・・・なぜか、しみじみと涙が出てくる・・・、
そして謙虚な心になれました。



カンボジアについて 
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

シハヌーク国王のもとで独立後、ベトナム戦争が起きると、国内は不安定となり、アメリカと南北ベトナムが介入し内戦状態となった。1968年には米軍の空爆が始まり、1970年にはロン・ノルのクーデターによりシハヌーク国王が追放された。内戦は一層激化し、空爆がカンボジア全域に拡大され数十万人が犠牲となると、クメール・ルージュ勢力の伸張をまねいた。1975年、極端な共産主義を掲げるクメール・ルージュの独裁者ポル・ポト政権が成立。1979年までに、旱魃、飢餓、虐殺などで100万人以上とも言われる死者が出た。(虐殺の数については5万~330万と諸説あり)。1979年にベトナム軍が侵攻しポル・ポト政権を打倒。その後ポル・ポト派含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。1989年にベトナム軍が撤退、1992年国連の平和維持活動が開始され、1993年には国連監視の下で民主選挙が実施された。今でもカンボジア国内ではかつての内戦の影響でたくさんの地雷と不発弾が埋まっている。それらの場所に危険標識があるものの、カンボジアの子供達は母国語であるクメール語の文字が読めないために誤って危険地帯に入る状況である。

 


タグ:カンボジア
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カンボジアで小さな命と闘う  [海外で奮闘する日本人]

 

 赤尾和美看護師

カンボジア4.jpg

 

 内藤カメラマンのHPより

赤尾和美さんは現在アンコール小児病院で訪問看護師として毎日朝7時から夕方5時まで、現在では約200人にも及ぶ患者さんを訪問し看続けている。

単なる病気の治療だけならば病院で診察すれば良いのだが、
その後の訪問看護の対象になるのは、
家庭でのフォローアップが必要な患者さんたちである。
家族構成から各生活状況によって在宅の患者さんを丁寧に見守り看続けていかないといけない状況がカンボジアにはある。
飲み水のことなどの衛生状態、規則正しく薬の服用しているか、
各家庭の栄養状態。

実にていねいにひとりひとりに対して一軒一軒に対して、多角的な視点から患者さんを看護していく。
何日か訪問看護の現場をご一緒させていただき、彼女の真っすぐな視線
・・・そしてやさしい心、ひたむきな看護。
人間は、やはりすばらしいと感じさせていただいた。
日本にも素晴らしい人は沢山いる、しかし異国の状況下で目の当たりにすると、より一層に見えてくるものがある。
彼女が看護する患者さんは極度の栄養失調であったり、母子感染によるHIVの患者さんであったりするので、
これからもプライバシーに細心の注意を配慮しながら、皆さんに伝えていきたいと思う。

極度の栄養失調で立つことも歩くことも出来なかった男の子がいた。
栄養失調になったのは家庭環境もある、生活環境もある・・・
細かな目配りと地道な看護、そして家族と話し合う。
この時は訪問看護した後、一緒に病院に・・・走れるまで成長した彼を見て、
赤尾さんは「ほんとうにうれしい、あんな姿が見れるようになるなんて・・・」と顔をほころばせた。

     


1軒1軒を、ほんとうに丁寧に廻っていく。
右手には、栄養を少しでも摂ってもらおうとお米や野菜などが入った食料を、
左手には体重計を・・・かなりの重さになる。

僕は、・・・やさしい心に涙が滲んだ。


劣悪な環境の小屋のような家・・・カンボジアは、これから雨期。
ますます衛生状態は悪くなるだろう。
家が密集しているところ・・・すぐ隣は川。
ぬかるんだ狭い路地を赤尾さんは、どんどん入っていく
・・・僕もあとを追いかける。
匂いが強烈・・・狭い路地もゴミだらけで生臭い。
思わず逃げ出したくなるが僕は写真を撮りにきた・・・
・・・ひたすら赤尾看護士についていく。
彼女はここでも丁寧に身長、体重、体温、脈を計りカルテに記入していく。
そして聞き取り調査して現在の生活状況、生活環境を身をもって感じていく。
ほんとうに頭がさがる・・・そしてこれがプロの仕事と感じる。

          

 

 

 

 

 

 

 


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伝統織物でカンボジアの復興を願う [海外で奮闘する日本人]

森本喜久男氏(IKKTクメール伝統織物研究所)

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内藤カメラマンHPより 

カンボジアでの被写体をお伝えしたい。
現地でカンボジア織物を復興させていくことで、内戦で荒れた大地を、そして暮らしを復興させていこうと試みる森本喜久男さんの活動を撮影取材しにいく。
       カンボジア3.jpg

ここの最大の特徴は、内戦で失われかけた織物の技術をカンボジアの人々と二人三脚で復興し、彼らの生活基盤を作る、そして伝統を継承していくこと。
先進国の論理の上での支援という形も見受けられる今の国際援助のなかで、彼の活動は地元の人々の誇りや技術を育てることによっての復興、じつに彼らカンボジアの人々に寄り添った活動がされている・・・ここは継続的な国際援助・国際貢献の形としてのヒントが沢山あると感じる活動なのである。

そこでどんな活動が? どんな人々の営みが? を写真でやさしく捉えられればと思う。
ここもスーダン同様に、ぼくら日本人が失いつつある、失ってしまった大切なものがあるような気がしています。

 

カンボジアに入って一週間が経過し、森本喜久男氏の「伝統の森」での撮影が一段落した。
素晴らしい取り組みの素晴らしい環境づくり、笑顔の子どもたち、母と子が働く環境の中に一緒にいる、そして男たちは環境を作る。
そして何より森本氏の織物に対する情熱と確かな目、京都友禅職人からタイやカンボジアでの織物の徹底した調査の25年にも及ぶ経験と深い知恵・・・そしてカンボジア織物の復興のみならず、カンボジアの人たちと溶けあって大いなる自然環境を作っていることに感動をした。


機織りだけでなく原材料となる桑の木の植樹、自然染料の元となる藍畑やあらゆる植物も育てている。ここでは化学染料は使わない。機織り機の重要なポイントとなる竹筬(たけおさ)の竹も植林、学校もある、機織り機や工房、家を造る職人も電気、水道配管の技師もいる。


農業・建築・自然環境づくり・学校、そして織姫たち・・・すべてが誇りある一枚のカンボジア絹絣に向かって力を合わせている。
少しでもずれていくと森本氏の確かな目の判断が入る。
村人が本当に幸せそうな顔をしている。やはりここにも僕たち日本人が忘れかけている、失ってしまいかけている大切な心があった。それらを丁寧に伝えていきたいと改めて強く思う。


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もうひとつの・・・スーダンという国 [スーダン]

内藤カメラマンHPより 

ダルフールや紛争地帯の写真を撮って、
今の現状を伝えていくジャーナリストカメラマンも絶対に必要だ。
しかし僕は、とかくそのイメージで凝り固まった概念に対しての
「もうひとつのスーダン」を捉えたかった。

そして「生きていく素晴らしさ、苦難を越えていく素晴らしさ」を、
それらを通して少しでも感じてもらえればと思う。

 

 スーダン9.jpg

 

ガターレフ州での1枚・・・ここには昨年の同時期にも訪れていて、
その時は見渡す限りの緑一面のデュラ畑でした。
デュラはトウモロコシに似てて、たぶんヒエやアワの一種の植物
・・・彼らの主要作物です。
今年はご覧の通りの一面のひび割れた大地
・・・そこに5日前に植えたデュラの芽が顔をやっと覗かせていました。
今年はデュラが育つ7月の雨期にほとんど雨が降らず、
デュラが育たずご覧のようなひび割れた大地となっていました。
ほんとうに過酷な大地です・・・地球温暖化も感じます。
その日の気温は約40度・・・比較的涼しい1日。
これから乾期のスーダンでどこまでデュラが育つかわかりませんが
農場主は種を再度蒔いていました。

 

スーダン7.jpg

グッディーヤの三角茅葺きの家々が並ぶ。
非常に近い生活文化圏なのである
・・・写真はロシナンテス診療所があるハサバラの村の美しい美しい夕日。
僕の滞在期間中はラマダンだったため、この夕日に包まれながら
・・・やっとその日の朝食(イフタール)がはじまる。
そしてまた祈りの時間。
ほんとうに聖なる静かな時の流れ・・・
なぜか人間としてのこころの落ち着きも感じた。


それが僕の真ん中にある心・・・軟弱な写真と呼ばれてもいい。
僕は友情と愛情と美しい心を追求していきたい。
子どもらに醜い世界ではなく醜い大人ではなく、
うつくしい心や友情やうつくしい人を伝えたい。
誇りある大人の姿をひたすら伝え続けていきたい。

 

 

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ここはスーダン南東部ガターレフ州のどこか? 道に迷った先での1枚。
ここではシャイ(紅茶に砂糖を入れた甘い飲み物)を御馳走になってしまった。
「シャイを飲ませてください」と頼んで、おいしくいただき料金を払おうとすると、
そこにいたボスのような人が僕たちの変わりにシャイ代を払ってくれた。

ありがたく「シュクラム」・・ありがとうと言ってゴチになった。
しかし、とにかくスーダンの人は砂糖が好き。
コーヒーもシャイもかなり甘くして飲む。

そしてその元の水が手前のお皿にある濁った水である。
しかし暑い中で飲む甘いシャイは格別。
オフロードで凝った身体をほぐしてくれる。
ちなみにこの日は1月だというのに摂氏40℃を記録、
夜はたぶん15度あたりまで下がった。

乾期である1月は、川らしきところを土で塞き止めて、ため池を作る。
そしてそれはそのまま家畜の飲み水であったり人間の飲み水であったりする。
その汚水が原因の病気(寄生虫、大腸菌)も、人の病気や生命さえも奪っていく。

そして雨期の7月、8月にもなるとナイル川は氾濫し
道路もなくなり寸断だらけとなる。厳しい過酷な自然である。
しかしながらみんな元気、とにかく明るい人たちなのだ。

汚い水ばかりではない。
僕たちが訪ねたガダーレフ州ガランナハル村周辺は、
ドイツの技術協力で随分と水が澄んでいてきれいなところもある。

 

 スーダン11.jpg

 

そしてスーダンの子供の4人にひとりは5歳まで生きることができない現実。
マラリア(蚊を媒体とする感染症)や水の汚染が原因の下痢や病気などです。
内戦の影響もまだまだ色濃く残っています。
そんなあおりを受けるのはまずは子どもたちです。


とにかく想像を絶するハエの大群でした・・・
そんなことも衛生上の問題ではあるのだが、
人間数より遥かに多いハエくんたち・・・
どこから手をつけていいのやらである。
しかし現地の子供達は非常に明るい。
そして親の言うことを実に良く聞き、よく手伝う子供達であった。
日本が失った家族の型・・・スーダンから学ぶべきものも実に沢山あるのである

 

戦争や紛争で破壊していく姿は、僕の中ではもう相手にしたくない。
ただ事実を知る大切な報道だと思うけれど、
やはりそこはそれに向かえる価値観がある人が行なえばいい。
僕も心の底では彼らのことを応援したい。


しかし僕はやはり・・・それらによって犠牲となっている弱者と共に
「ひとつずつ大切な芽を育てたい、日本人の僕たちがどのようにして友情を築き、
共に歩んでいくことを写真に記録していきたい、そしてその物語を伝えたい」
ネガティブな事実だけではなく、少しでものポジティブな芽を出す作業。


スーダンについて  
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

スーダン共和国・・・国旗の意味は、赤が革命と進歩と愛国者を、白は平和と未来への希望を、 黒は国名(スーダンとは「黒い土地」という意味)とアフリカ大陸を、緑はイスラムの 繁栄と幸福を表している。人口は約3,100万人。
面積は日本の約6.6倍。
アフリカ大陸最大の面積を有する国。首都はハルツーム。

1849年より英・仏などの保護下で奴隷貿易が始まる。
1899年より英国による南北スーダンの分割統治が始まる。いわゆる植民地。
1955年  継続的な南北スーダンの内戦状態が始まる。
1956年  英国領より独立。南部の石油利権をめぐり南部による抵抗が始まる。
独立後における様々な意味での南北の違いや格差、経済発展の格差の不均等が原因となって、その後の長きに渡って内戦が続く。

2002年  南北内戦の部分的停戦合意成立。
2003年  ダルフールでスーダン解放運動(SLA)と
      正義と平等運動(JEM)などの抵抗が始まる。
      ダルフール地方からの難民及び国内避難民の流出が始まる。

2005年1月 南北内戦の包括和平協定が成立した。

しかし未だにダルフール地方には200万人に達する難民が溢れかえり、
南スーダンにおいての復興は先が見えない状態。

イギリスのスーダン南北統治の影が色濃く残るスーダン。
北スーダンは、主にアラブ系でイスラム教。
現政権は、アラブ系イスラム原理主義。
南スーダンは統治の影響もあってキリスト教でアフリカ系黒人。
一つの国で、休みの日も違う。北は金曜日、南は日曜日とまったく二つの国が混在している状態。南スーダンでは、その他土着宗教、民族も多数あり問題をさらに複雑している。そして南スーダンには石油資源がある。
その利権を巡っても大国を巻き込んでの複雑な側面を要している。
内戦時には主に南スーダンが戦場となり、国連や各国のNGOを南スーダンの首都・ジュバに集結している。

2011年には、南部独立についての住民投票が行なわれる予定。

現在の石油採掘は主に中国の技術で行なっていて、北スーダンにあるポートスーダンまでパイプラインを引き輸出を行なっている。

鮮烈な記録に残る 2001年9月11日 アメリカ同時多発テロ。

その3年前の1998年、在タンザニア米大使館と在ケニア米大使館に対しての爆破テロ。
2カ所で224名が死亡。
爆破の影響で周囲の市民など約4000人が死傷した。
この爆破事件の実行犯は未だ特定されていないが、アメリカ政府はテロ組織「アルカイダ」の関与によるものと断定し、同年8月20日にアルカイダ・キャンプがあるといわれるアフガニスタン東部とスーダン・ノースハルツームにある化学兵器工場を巡航ミサイルにより報復攻撃した。結局、誤爆だった。

 

 


タグ:スーダン
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